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グラデーションの中にある文学

こんにちは。
海藤です。


今でこそ正面切って取り上げられることは少なくなりましたが、文学には常に純文学と大衆文学の棲み分けについての本質的な問題が存在します。純文学が芸術的・主観的なもので、大衆文学が通俗的・客観的なものであるという弁別は理に適っているようですが、文学の本質に鑑みた時に、単純化で便宜上のものであるという問題はアカデミックな位相ではやはり蟠っているような感じがします。昭和初期の文壇においては、横光利一が芸術的にして通俗的であると言う「純粋小説論」を展開して自らの長編小説でそれを実践しましたが、その提言は時代とともに色褪せていき、拡張もせず定着もしませんでした。


また、典型的な通俗文学であると見なされていた探偵小説の分野では、江戸川乱歩が「陰獣」で妖艶な倒錯の世界を描いて、そのジャンルを芸術の域にまで高めようとしました。そのことに付随して言えば、初期の谷崎潤一郎なども、性的倒錯者の世界を執拗なまでに描くことによって、肉感的なものから抽象的な精神性のようなものを浮かび上がらせて、芸術の香気を漂わせようとしたわけですし、純文学と大衆文学とは完璧に棲み分けができるようなものではなく、ある種コインの裏表であるような感じがします。戦後になってから、そうした歯痒さに対するひとつの回答として示された中間小説という概念が、井上靖や立原正秋などの作品を特筆するのみで曖昧模糊とした印象のまま消え失せていったことが、そのことを裏付けているようです。夢野久作の「ドグラ・マグラ」にしろ、井上靖の「氷壁」にしろ、単なる通俗的な読み物と言うにはあまりにも行間から観念や思想が浮かび上がってくるのですから、単純に二極での区別が出来ない一筋縄ではいかないものを文学は孕んでいます。


児童文学にしても、ジュニア小説にしても、あるいはヤングアダルト小説にしても、程度の差こそあれ何らかの思想は盛り込まれているわけであり、イマジネーションを介した作家と読者の共同作業というものを、何かの形で定義するということが自家撞着であるということが考えられます。例外的なものはノベルス作家と呼ばれる部類ですが、そうした範囲内にとどまっていて文学賞の候補作にノミネートされることが少ないという事実が示唆的ではあります。そういう意味でノベルスというジャンルは京極夏彦や志茂田景樹などに代表されるように、ステップアップを促すためのある種の土壌であると言えます。桜庭一樹や辻村深月など、青臭い大衆性の中から芸術的衝動によって表現の壁を打ち破っていく作家もいます。歴史的に見ても芥川賞と直木賞の両方にノミネートされたことがある作家が多いことも、厳密な区別や障壁がほとんどないことを裏付けているのではないでしょうか。


そうした一概に狭小な定義ができない大きな括りとしての文学は、旧来のイギリス文学に範を求めることができるようです。サマセット・モーム、グレアム・グリーン、フォースター、D・H・ ロレンス、ハックスリなど枚挙に暇がありませんが、注目すべきはそのような作家たちの活躍時期が第一次大戦の前後に集中していることです。世界的な激動の時代やその後にやって来る疲弊の時代などには、旧来のものとは違う本質的な価値観が模索されるようで、そうした過渡期にある時に垣根のない包括的な文学表現がなされるようです。このことは世界経済の疲弊によって徹底した内向と大きな矛盾を抱えざるを得ない現代ともオーバーラップさせることができるでしょう。かつてはグローバルな分裂を抱える時代の文学に特徴的なものは、精神に対する肉体の優位というテーゼでした。D・H・ ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」やハックスリの「恋愛対位法」などがその代表的な作品ですが、方法論の違いはあっても、両作とも一種の観念に対する絶望が根底にあったようです。その一方でフォースターの「インドへの道」などの教養小説も存在したのですから、肉体的なものや活動的なものに傾斜しながらも刹那的になり切れないという現象は、大きな過渡期の時代に特有のものであるようです。


考えてみればバブル崩壊後の日本でも、藤沢周や花村萬月など、バイオレンスと肉体の本能に対する忠実さを描いた作家が芥川賞を受賞して、純文学作家として地歩を固めました。その時に直木賞を受賞したのが私小説作家の車谷長吉であったということが話題になりましたが、そのことにも何か文学が一つの総合的なものとして浮かび上がってきた感があったようです。その後、肉体の本能を描いた過激な小説が文学であるという認識はしばらく続き、人気作家も作家志望者もそれを志向しましたが、社会の疲弊と共に時代の軸足が肉体から精神に移行していくにつれて下火になっていきました。


メンタリティが人間の指標として重視される時代になってからは、東野圭吾、恩田陸、東山彰良、湊かなえ、朝井リョウ、島本理生、羽田圭介といったように、キャッチーな作風と精神性を併せ持った作家たちが活躍するようになり、激動の時代に相応しく人間と社会の構造を浮き彫りにする総合的な文学という様相を呈してきました。社会の中でのメンタリティを軸にして作品世界を展開するこうした現代作家たちの作風やスタンスは、内面を通して大きな枠組みを描写するという点において、やはり先に述べたイギリスの作家たちと符合するものがあるのでしょう。このようなことを勘案してみると、文学が結局のところ総合芸術であるという事実に帰着するのは、それが時代も人間も包括したものであり、本質的な根っこを握っているものだからなのでしょう。文学そのものが打開策になるわけではありませんが、時代と伴走している文学という総合的なものは、やはりどこかで人間にとっての必要条件となっているような思いがします。

2020年1月17日 本買取ダイアリー [RSS][XML]


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