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時代の共通認識などについて 2

そういう世相の中にあって、私は中年期になってから改めて太宰治の「晩年」を読みました。太宰作品はステレオタイプな見方では思春期の通過儀礼のように言われていますが、多くの作家や批評家が言及しているように、年を取っていくにつれて読み方が変わり、新しい発見があるというのもまた事実です。私は「晩年」の中に収録されている芥川賞候補になった「逆行」という作品をこの年齢で改めて読んだ時に、人間疎外も人間の愚かさも、一つのシンボライズされた基準の中に溶融していくような感覚を味わいました。また自伝的作品「東京八景」なども、三十代になってから改めて読んだ時に、人間存在の流転が一つのシンボルに輻輳していくようなものを感じました。このことは太宰が特殊な人生を送ったということだけで説明できるものではなく、世代によって受け取り方は違えど、多くの人たちが共通認識の中に溶け込んでいくという点で、心理学者のユングが言っていた集合的無意識のようなものが存在しているという証のように思えます。


そのようなことから考えても、人間社会のバックボーンにはぎりぎりのところでシンボライズされた「観念的な偶像」とでもいうものが端然と存在しているように思います。先ほど私はその時代における共同幻想という書き方をしましたが、それらはこのようなバックボーンから来ているようにも感じられ、哲学という分野がある程度体系化されてしまうという現実がそのことを裏付けているとも言えるのではないでしょうか。虚像のように感じられても実際に人間存在には実装されていて、やはり「観念的な偶像」としか言いようのないもの、そして明らかに人間の生活において実体があるもの、そういうものを手探りする手段として人文科学が存在するのだと思います。膨大な情報による人間疎外と社会の断絶は存在論的なイマージュに収斂していくものであり、個々人がそれを経験値によって実体化していくことが現代社会の快癒への道だと考えられます。それは共同幻想とはまた違う次元のことであり、もっと包括的な論理の話になってくるのでしょう。


現状としてある世代間の価値観の断絶と不寛容で狭隘な社会構造は、人文科学あるいはそれに準じるものによって段階的に修復していくことができるでしょうか。先ほど言及した太宰治の「晩年」なども一つのヒントですが、情報の荒波の中で、「観念的な偶像」を念頭に置きながら、時に社会全体を俯瞰して見ることも重要になってくるでしょう。個人、社会、パソコンやスマホの世界、それらを包括した原理として共同幻想が確かに存在するということは、ある種のイメージであり偶像でありながらも、比較的生活の中で実体化されやすいことだと思います。それはつまり人文科学的な世界が生活に即した世界だからであり、人間と社会という実体が確かに存在するからということに尽きるのではないでしょうか。



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2019年11月28日 本買取ダイアリー [RSS][XML]


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