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チェーホフの人生論

こんにちは。
海藤です。


最近チェーホフについて考えることがあります。それは私が中年期に入ったからであり、チェーホフの作品に描かれる人生の起伏や難渋というものが実体験に照らし合わせて痛感されるからでしょう。ある意味ショーペンハウアー的な世界なのですが、文学に長年接してきた人間にとっては、外国文学の人生の荒波を広くカバーするような感じが恐ろしいまでのリアリズムを持って迫ってくるのです。日本文学にも確かに人生論的なものを感じることはあったのですが、外国文学の世界観とは違って自我の狭隘な世界観ばかりがカバーされることが多かったように思いますし、どこか主観の域を出ていないもののように想起されるのは、私が中年になったことと関係があるでしょう。


チェーホフの「中二階のある家」や「往診中の出来事」などには人生を俯瞰した時の、不明瞭ながらも確かに存在する不安というものが描かれているようです。最初は売文業者のような生活をしていたチェーホフが本当の文学を志向するようになってから書いた短編の作品群には、人間が人生の荒波に疲弊して虚脱した後にじわりとくるものがあります。今思うとチェーホフをまともに読んだ時は私はまだ二十代でしたし、中年期に世を去ったチェーホフの遺言的な世界を本当にはくみ取れていなかったように思います。中年期に痛烈に迫ってくるという意味では、トルストイの「懺悔」なども挙げられるでしょう。色々なことを味わい尽くして、多くをわかり過ぎてしまった中年期の悲劇がそこには描かれています。それはトルストイにとって道標を見失ったような絶望感であったことは想像に難くありません。ただその「懺悔」における絶望感と一種の悔恨は、人生をズームアップで捉えた考えであると言えるでしょう。それに比べてチェーホフの方は、人生をロングショットで捉えているような感覚があるのです。このことは中年期に病に倒れ最後の方は遺言的な世界を開陳したチェーホフならではであり、天寿を全うしたトルストイとの決定的な相違であると思われます。


喜劇王のチャップリンは「人生はズームアップで見ると悲劇だが、ロングショットで見るとまるで喜劇だ」と言ったそうですが、移ろいゆく人生の悩みや苦しみというものが単に悲劇という風に片付けられないという真実は、人生の悲喜こもごもを研ぎ澄まされた視座で見つめるチェーホフ的な人生論にも通底しているものです。「犬を連れた奥さん」に描かれるような不可逆性の悲劇などは、「桜の園」における人生論の軸にもなっているように思います。


日本文学に人間性を虐め抜くような特徴があるとしたら、チェーホフなどのロシア文学には人間性をかき抱くような特徴が見受けられるようです。日本文学においては人生を超克するために人生を利用するという感じがありますが、チェーホフには人生に歩み寄るという姿勢が確かにあるのです。こういうことをリアルな実感を伴って考える年齢に自分もなったのだなとしみじみと思います。日本の作家は自我をさらけ出すか耽美的になるかという選択肢であったと思いますが、どこかでロングショットで見た人生と手を携えなければいけないと思うのです。自我や特定の観念に没頭していたのでは、人生の本当の有り様を見失ってしまうのではないでしょうか。


日本では21世紀になってから若さや若い感性が過剰に賛美されるようになったため、老成というものや分別くさい人生観が敬遠される傾向にあるようです。もしかしたら日本人のそういう精神は昔から形を変えながら存在していたものであって、ロシア文学的な人生を俯瞰する姿勢はマイナーであったのかもしれません。それに比べてチェーホフの世界観は社会が存在してこその自我であるということを雄弁に物語っており、悩み苦しみながらもロングショットの人生を見渡しているという感触があります。そういう意味でチェーホフの作品群やトルストイが悔悟の時期を経てから書いた「復活」などは、いつまでも我を張るような感受性に一石を投じるものです。


肥大したままなかなか収束できない自我に苦しむのも一興なのかもしれませんが、俯瞰と悔悟から生まれるものもあるのではないでしょうか。否応なしにそういう思いに至る時期というのは、確かにあるのだなと思います。そうしたチェーホフ的、トルストイ的な人生論が骨身にしみる年齢に自分もなったのだなと思う今日この頃です。

2019年7月9日 本買取ダイアリー [RSS][XML]


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