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文学と自己愛について

こんにちは。
海藤です。


明治初期からの日本文学史を振り返ってみると、文学者といわゆる自己愛の問題とは密接な関係があるように思われます。このことは欧米とは異質な極めて日本的な病理であるようにも感じられるのです。一概に文学者が自己愛的でナルシストであると断言することはできないのですが、多かれ少なかれ自己愛的な自己陶酔的なものがなければ小説などというものは書けるものではありません。それはつまり日本文学には私小説などに象徴されるように、自我に没入しそれを投影させて創作をする傾向があるからなのです。


単純化のようなことを言えば、純文学が利己的で大衆文学が利他的な奉仕の世界であるということも言えるでしょう。その点では吉川英治や松本清張などが読者への奉仕と献身の代表格であると言えます。彼らのように作品の面白さのみを追求する大衆文学作家が社会性と結びついているのに対して、かつての純文学作家の一部には病的なまでのナルシシズムがあったように思われ、それが創作の淵源になっていたという感じがします。


昭和の純文学作家たちには、わかりやすい例えをするのならば、欧米のロックミュージシャンのような尊大な自己への没入があり、自我の世界を唯一無二とするような根強い自己愛があったように思います。太宰治や三島由紀夫を引き合いに出すと分かりやすいでしょう。太宰は自分のナルシシズムが危うくなると、芥川賞事件に象徴されるように暴力的になり、自己愛が安全圏にある時に家族や他者に対して調和的な態度になったようです。このことは万能感と無能感との間の振幅が激しい自己愛的性格に特徴的なものです。三島に関しては、初期の唯美的で耽美的な作風と三十歳以降のボディビルなどによる肉体の鍛錬の自己陶酔が、自己愛を物語っていると言えるかもしれません。そのことについては、三島は現代で言うところのミドルエイジ・クライシスというものに苛まれていたという可能性もあります。自己愛的な性格というものは年をとっていくにつれて自尊心が傷つけられていくものです。それは自分のプライドのよすがになっていたものを喪失していくからに他なりません。太宰に関しては「人間失格」の後の「グッド・バイ」は気の抜けたサイダーのような作風になっていますし、三島の最後の作品である「豊饒の海」四部作は過剰なまでに美麗な文体になっています。このことは中年期における自己愛が、虚脱感を感じたり逆に力んだりする傾向があることを文学を通して証明しているようなものです。


昭和の高度経済成長期の豊かな時代になって、純文学作家たちのデカダンスはなりを潜めましたが、彼らが豊かさの中である程度の社会性を獲得していくにつれて、その自己愛の形は豪放なものから鬱屈したものに変わっていったようです。村上春樹などの平成のライトバースの時代もありましたが、個性の重要さや人間の自由な意志が喧伝される現代において、自己愛の観念は一部の芸術家だけではなく広く一般に広がっていきました。平たく言えば個人的な大義にしがみつくことの多い時代になったと言えるでしょう。


そして自己愛の衝動は現代においても芸術のエネルギー源であり、それは動画配信や SNS といった表現で多様に躍動しています。自由意志の氾濫で一億総アーティストになっているような状況だからこそ、献身や奉仕によって保証されることのない現代的な問題が際立つのです。そして自己愛の大衆化は芸術家気質が結実することの難しさによって、引きこもりの問題の一因ともなっている気もします。ミドルエイジ・クライシスなどの問題も、若くて最先端の自分を捨て切れないプライドによるものだと言えるでしょう。


表現活動が大衆化されたことは良いことなのですが、不必要に先鋭的なものやオリジナリティに喝采を送る世の中はどこかで見直さなければいけないような気もします。芥川や葛西善蔵、太宰や坂口安吾や三島といったナルシシズムの系譜から、自らのナルシシズムに振り回される現代人の生き方を考えた時に、自尊心やプライドといったものとは違う庶民感情的な、自分を大切にするという意味での自己愛を見直すことも意義があることだと思います。かつてはそうやって世の中が豊かに上手く回っていた時代もあったのですから。アーティスト性と庶民性との「両手に花」という価値観も、混沌とした現代に対する一助となるのではないでしょうか。

2019年6月24日 本買取ダイアリー [RSS][XML]


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